宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999などで有名な松本零士さんが亡くなられました。
昭和を代表する漫画家ですよね。
松本零士さんがどんなだったのか高校などの学歴や漫画家としての経歴など気になりますよね。
そして本名は松本零士ではないので、どんな名前だったのかもみていきます。
松本零士の高校はどこで学歴は?
松本零士さんは、福岡県立小倉南高等学校出身です。
その他の学歴についてもみていきますね。
【訃報】漫画家・松本零士さんが急逝心不全のため死去、85歳 https://t.co/eASLtfHW6k
『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』で知られる漫画家の松本零士さんが、2月13日、急性心不全のため都内の病院で亡くなった。85歳だった。 pic.twitter.com/kNpo07c6FI
— ライブドアニュース (@livedoornews) February 20, 2023
松本零士さんは1938年に、福岡県久留米市に生まれます。
第二次世界大戦中だったため、小学校2年生までは、母親の実家がある愛媛県喜多郡新谷村(現在の大洲市新谷町)に疎開していました。
両親は共に愛媛県大洲市の出身です。
当時の小学校の名前は今のところわかってはいません。
終戦後の小学3年生からは、小倉市立米町小学校(現・北九州市立小倉中央小学校)に移ります。
その後は小倉市立菊陵中学校(現・北九州市立菊陵中学校)に進学しています。
高校は福岡県立小倉南高等学校に進学します。
子供の頃は、父親が軍人だったこともあり、4歳から6歳まで兵庫県明石市の川崎航空機の社宅に住んでいて、その後は愛媛県の母の実家に移り、小学3年生からは福岡に移るという生活を送っていました。
小学校は愛媛県と福岡県の学校に通っていたことになりますね。
松本零士の経歴は?
松本零士さんの経歴についてみていきます。
小学校からの漫画少年
松本零士さんは小倉市立米町小学校の時から漫画少年で、漫画家の高井研一郎さん達と同人グループ「九州漫画研究会」を結成し、同人誌「九州漫画展」を主宰します。
手塚治虫の漫画『新宝島』『キングコング』『火星博士』『月世界紳士』が、小学校の学級文庫にあり、それが漫画家を目指すきっかけとのなります。
デビューは高校生
デビューは、1954年(昭和29年)福岡県立小倉南高等学校1年生のときです。
投稿作「蜜蜂の冒険」が『漫画少年』(昭和29年2年号)に掲載されました。
「毎日小学生新聞」にも多数のマンガが掲載され、手塚治虫さんからもアシスタントを頼まれるほどの存在となっていました。
高校卒業後に連載決定し上京
高校卒業後は毎日新聞西部本社版で連載をする予定でしたが、担当者が代わったため、なかったこととなります。
ですが、月刊少女雑誌『少女』での連載が決定して上京することになりました。
その後は1960年前後から少年誌、青年誌にも進出していきます。
【追悼 #松本零士 さん死去】
北九州市ゆかりの漫画家、松本零士さんは「銀河鉄道999」など数々の人気SF作品を生み出す一方で、半世紀にわたって戦争を題材にした漫画を書き続けています。そこに込めた思いとは。(2018年8月2日放送の「ニュースブリッジ北九州」より)https://t.co/5Nge5fdHLj pic.twitter.com/VZ7ZgORujq— NHKアーカイブス (@nhk_archives) February 20, 2023
出世作は「男おいどん」
1971年から『週刊少年マガジン』に連載した『男おいどん』が出世作となり、1972年に講談社出版文化賞を受賞しています。
アニメ作りに参加
『宇宙戦艦ヤマト』には1974年の4月頃から、松本零士がデザインのスタッフとして途中参加しています。
キャラクターや個々のストーリー作りなど作品制作に深く関わるようになり、企画書にあったキャラクター設定・メカ設定を一新し、基本ストーリーの初稿を執筆しました。
その後は監督も務めることになります。
アニメ作りに携わりたかった松本零士さんにとっては、願ってもないチャンスとなっています。
松本零士アニメブーム到来
『宇宙戦艦ヤマト』は本放送で低視聴率に終わりましたが、再放送で人気となり、劇場版アニメとなり社会的ブームを巻き起こすことになります。
松本零士さんは、アニメ制作会社「東映動画」にイメージクリエイターとして起用されます。
そして、自らの企画の『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』がヤマト人気によりアニメ化が決定され、『銀河鉄道999』は大ヒットをし松本零士ブームが訪れます。
松本零士さんのアニメブームは1982年頃には落ち着き、その後20年間はTVアニメは放映されていません。
団体役員や大学教授として活躍
1980年代後半以降は、宇宙開発事業団などさまざまな団体の役職に就任します。
漫画では、自作の人気キャラクターを同一の作品世界にまとめる作業を進めたりしています。
2006年 宝塚造形芸術大学(2010年、宝塚大学に変更)のメディア・コンテンツ学部の教授に就任します。
1974年以降1982年頃まで松本零士さんの一大アニメブームが続きました。
アラフィフ世代にとっては、松本零士さんの作品はとても思い出深く懐かしいですね。
松本零士の本名は?
松本零士さんの本名は「松本 晟(まつもとあきら)」です。
デビュー時は「松本あきら」としており、「松本零士」を使うようになったのは1965年以降です。
まとめ
松本零士さんの高校や学歴、経歴や本名についてみてきました。
子供の頃は第二次世界大戦中だったので、社宅に入っていたり、母親の実家の愛媛県に疎開していました。
その後は福岡県出学生時代を過ごしています。
高校卒業後は雑誌の連載が決まり上京し、アニメ制作にも携わることになります。
宇宙戦艦ヤマトに関わったことで、松本零士さんのアニメブームがやって来ます。
宇宙戦艦ヤマトのヒットが大きかったようですね。
今でも有名で人気のある松本零士作品。
今後もずっと語り継がれていって欲しい作品ばかりですね。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。